昨日インスタを眺めていたら、谷口たかひささんという環境活動家の方の発信で、【完璧より前進】という言葉を見つけました。
「レジ袋を断っても、捨てる時にどうせゴミ袋を使うから意味なくないですか?」
という質問に対して
0か100かではなくて、100の方へ向かって何かをしているか?が大事である。というような内容です。
ご本人の発信はこちら↓
それはそう。
うん。そうそう。
そうだよね。
特段「うわー。そういう考え方もあるかー」みたいにびっくりすることではないし、自分の中でその考え方は当たり前である、という感じではある。
コンビニ飯ばかりの自分を変えたくて、「今日から味噌汁だけでも自炊しよう」と3日やって、挫折して。
でもその3日後、「やっぱり米だけでも炊いておむすび は作ろう」と頑張って、3日でやめて。
でもでも!「コンビニじゃなくてスーパーのお惣菜に変えることくらいなら自分でも・・」とまたやってみる。
結局そうやっていろんなやり方を試し試しやっているうちに、先月1ヶ月はほとんどコンビニ飯を避けることができました。
3日坊主でも、3日、3日、3日・・・と続けていければ、それで良いのだ。
完璧より前進
そう、前進。
「0か100かではなくて、100へと向かっているかどうか」は私の中に根付いてはいるのですが、じゃぁなぜこの言葉に惹かれたのか?
それは、こと運動に関しては「0か100か」で考えてしまう人が多いな、ということに気が付きながらも、そのことをうまく言葉として発信できないでいたからだと思います。
たとえば、逆上がり。
全くできない0の状態から、100のできた!にするためには、とにかく鉄棒で練習しまくるしかない。頑張らないとできるようにはならないよ!!
・・ではないのです。
グラグラする遊具に捕まる。
ブランコを自分の足で漕ぐ。
ターザンロープにヒョイっと自分で飛び乗る。
ボルダリングみたいな遊具を登る。
などなど
これらの遊びも、逆上がりへの前進。
鉄棒を使わなくても、→は逆上がりの100へと向いているのです。
前進。前進。
だから、遊ぶことが大事なのです。
公園で遊んでいれば、逆上がりも跳び箱も縄跳びも、みんなが苦手としていることのほとんど全部に→は向いて、前進しているのです。
鉄棒の前で練習しまくるのも、もちろん前進であるし、その方が期間的には短くてできるようになるだろう。
けど、それを嫌がる子どもが多いし、それでは逆上がりができるだけで、ほんとうに必要な運動の基礎的な能力は付かないだろう。
体操教室に通っているから、逆上がりはできるんです。でも、運動は苦手なんです。という子が多いのは、0から強制的に100にした結果ではないだろうか。
それよりは、公園であそぶことで、常に矢印が→→→になっていることが大事だと私は思う。
んーー。
長々と書いたわりには上手くまとまらないなぁぁ。。
でも、これも、完璧より前進。
10でも20でも伝われば良い。
というわけで、つまりはもっとこまめにブログ書きなさいよ、と自分に喝を( ;∀;)
『前進』っていう言葉、いいな。